五経と四書を合わせて儒教の基礎とするものである。 五経と四書は中国帝国時代の科挙の基礎であり、儒教の正典ともいえる。 五経は、『論語』『文語』『変化律』『礼記』『春秋戦書』からなる。 四書は『中庸』『大學』『孟子』『論語』で構成されている。 漢から宋の初期にかけて、五経は13の古典に成長した。 しかし、宋の初期になると、学者たちは再び元の五経に注目するようになった。 しかし、宋の中期になると、論語、孟子、大學、中庸が重要視され始め、14世紀初頭には、四書が民試のテキストとなった
朱子では、四書と五経に特定の順序を定めた。
まず『大學』を読んで儒教の道の型を固め、次に『論語』を読んでその基礎を固め、次に『孟子』を読んでその発展を観察し、次に『天下泰平』を読んで古人の神秘を見いだすように。 大學』は、その表紙の中に、一連のステップと、最初に読むべき正確な順序を提供している。 論語は具体的だが、言葉が断片的に散らばっていて、一読すると難しい。 孟子には、人の心を動かすような文章がある。 3577>
中国帝国時代、儒教の典籍は大きく変化したが(「典籍の版図」を参照)、以下は各書籍を簡単に説明したものである。
『大成経』
大成経は道徳的な自己修養のための手引き書である。 大學』によると、道徳的な自己修養の鍵は学問、つまり物事を調べることである。 物事を調べることによって、万物の理を理解し、世の中をよりよく理解することができる。 このように道徳的な自己修養を行うことで、人の「理」と「気」が調和し、一貫した道徳的な行動がとれるようになるのである。 朱熹は『大學』を儒教の古典の中で最初に読むように命じた。『大學』に込められたメッセージは、学問の価値について考えるきっかけになるからだ。 大學』が学問を重視したように、『論語』もまた学問を重視した。 論語』によれば、道を知るための第一歩は学問に専念することである。レッジの『論語』英訳を読む
孟子
孟子は孔子との対話をまとめたもので、孟子が孔子と話したことを記録している。 孟子は、皇帝が道に従って良い統治を実践する責任を強く強調している。 また、孟子はすべての人間が本質的に善良であると信じている。 孟子』の最も有名な一節に、「井戸の縁で揺れ動く子供を見ると、人間は皆、本能的に警戒と憐憫の情を抱く」とあり、誰もが生来、善良で道徳的であることが示唆されている。 しかし、誰もが実際に子供を助けようと駆けつけるわけではないことを指摘し、人は皆、生まれながらにして正義と善の種を持っているが、その種を育み、育てる方法を学ばなければならないという考えを強調しているのである。ジェームズ・レッジの英訳『Mencius』を解説付きで読む
The Doctrine of the Mean
The Doctrine of the MeanはThe Constant Mean (Legge), Maintaining Perfect Balance (Gardener) など多くの翻訳がされている。 この『中庸の教』は、孔子の孫である子路の著作とされ、人生における完璧なバランスと調和を保つ方法を扱っている。 中庸の教は、道に従い、正しいこと、自然なことに従って行動することに重点を置いているが、人々はしばしば適切に行動しないことを認めている。 この状況を改善するために、人々は道徳的な自己修養に励み、正しく行動するよう奨励されています。A.チャールズ・ミュラーによる『平均律』の翻訳と解説を読む
Book of Documents
The Book of Documentsは、古代中国の出来事を詳細に述べた58章をまとめたもので、その内容は以下の通りです。 初期の賢王である尭と舜の行いが記されている。 これらの物語は、賢人としての理解を深める上で影響力がある。 また、夏、殷、周の各王朝の歴史も収録されている。Book of Odes
Book of Odesは、Book of SongsまたはBook of Poetryと訳されています。 詩集は305編の詩からなり、恋愛や結婚、農業、日常生活、戦争などさまざまな問題を扱っている。 詩集には、民謡や生け贄に捧げる讃歌など、さまざまなカテゴリーの詩が収められている。礼記
周代における社会規範、行政組織、儀礼などを記したもので、周代における社会的な規範、行政組織、儀礼などを記したものです。 孔子によって編纂されたとされる『礼記』は、後の帝政中国における多くの儀礼原則の基礎となるものです。変法書
変法書には、陰陽の原理を中心とした占いの体系が記されています。 また、「易経」や「経典」とも訳されている。春秋戦記
五典の中で最も長い春秋戦記は、魯の国の歴史的な年代記である。 史記』と異なり、『春秋戦記』は特に年表を作成する目的で作られたと思われる。 春秋』は孔子によって書かれたと理解されてきたが、現代の学者たちは、実際には魯国のさまざまな記録者によって書かれたと考えている。