ニコロ・パガニーニ

若いパガニーニの肖像

幼少期編

アントニオとテレザ(旧名ボッチャルド)・パガニーニの六人兄弟の三男として当時のジェノヴァ共和国の首都に生を受ける。 パガニーニの父親は売れない貿易商だったが、マンドリンで音楽を演奏することで何とか収入を補っていた。 5歳で父からマンドリンを習い始めたパガニーニは、7歳までにヴァイオリンに移行する。 その才能はすぐに認められ、数々の奨学金を得てヴァイオリンを習うようになった。 パガニーニは、ジョバンニ・セルヴェットやジャコモ・コスタといった地元のヴァイオリニストに師事したが、彼の上達は彼らの実力を上回った。 その後、パガニーニは父とともにパルマに渡り、アレッサンドロ・ローラからさらなる指導を受けることになる。 しかし、パガニーニの演奏を聴いたロラは、すぐに自分の師であるフェルディナンド・ペール、さらにペール自身の師であるガスパロ・ギレッティに紹介した。 1476>

初期の経歴 編集

1796年3月、フランスは北イタリアに侵攻し、ジェノバもその影響を受けた。 パガニーニ一家は、ボルザネート近郊のロマイローネにある別荘に避難した。 この時期、パガニーニはギターとの関係を深めていったと考えられている。 彼はギターをマスターしたが、公のコンサートではなく、もっぱら内輪で演奏することを好んだ。 後に彼は、ギターを演奏旅行の「常連客」と表現している。 1800年、パガニーニは父とともにリヴォルノに移り住み、パガニーニはコンサートに出演し、父は海運業を再開した。 1801年、18歳のパガニーニはルッカ共和国の第一ヴァイオリンに任命されたが、彼の収入のかなりの部分はフリーランスの演奏によるものであった。 1805年、ルッカはナポレオン・フランスに併合され、ナポレオンの妹エリサ・バチョッキがこの地を譲り受けた。 パガニーニはバチョッキ宮廷のヴァイオリニストとなり、一方でエリサの夫フェリーチェに個人レッスンをしていた。 1807年、バチョッキはトスカーナ大公妃となり、宮廷はフィレンツェに移された。 パガニーニはその側近の一人であったが、1809年末頃、バチョッキのもとを去り、フリーランスの活動を再開する。

旅するヴィルトゥオーゾEdit

1831 パガニーニの公演を宣伝する会報

その後数年間、パガニーニはパルマやジェノヴァ周辺でのツアーに戻っている。 地元の聴衆には大変人気があったが、他のヨーロッパ諸国ではまだあまり知られていなかった。 1813年、ミラノ・スカラ座で行われたコンサートが、彼の最初のブレイクとなった。 このコンサートは大成功を収めた。 その結果、パガニーニは、ヨーロッパ中の著名な、しかし保守的な音楽家たちから注目されるようになった。 ラフォンやシュポアとの出会いは、激しいライバル心を抱かせた。 1827年、ローマ教皇レオ12世から金獅子勲章を授与される。 1828年8月にウィーンで始まった演奏旅行は、1831年2月のストラスブールまで、ドイツ、ポーランド、ボヘミアなどヨーロッパの主要都市を回り、彼の名声はヨーロッパ中に広まった。 その後、パリやイギリスでも演奏旅行が行われた。 彼の技術的な才能と、それを惜しみなく発揮する姿勢は、多くの批評家の賞賛を浴びた。 パガニーニは、自作曲(主題と変奏)のほか、ロドルフ・クロイツァーやジョヴァンニ・バティスタ・ヴィオッティなど、同時代の作曲家の作品(主に協奏曲)を改作して演奏した。

晩年と健康状態の悪化編集部

パガニーニは生涯を通じて、慢性的な病気と無縁であったわけではない。 医学的な証拠はないが、マルファン症候群やエーラス・ダンロス症候群に罹患していたとされる。 また、頻繁に行われたコンサートのスケジュールや、贅沢な生活スタイルが、彼の健康を害した。 1822年には梅毒と診断され、水銀やアヘンなどの治療薬で肉体的、精神的に深刻な副作用が出た。 1834年、パリに滞在していた彼は、結核の治療を受けた。 その後、風邪からうつ病まで、数日から数ヶ月に及ぶ体調不良による演奏会中止が続いた。 1834年9月、パガニーニはコンサート活動に終止符を打ち、ジェノヴァに戻った。パガニーニは、自分の音楽と技法を秘密にしておきたいと考えていたが、それに反して、自分の作曲とヴァイオリンの奏法の出版に時間を割いた。 パガニーニは、ヴァイオリン奏者のカミッロ・シヴォリとチェロ奏者のガエタノ・チャンデッリという二人の弟子を受け入れた。 しかし、両者ともパガニーニを参考にしたり、インスピレーションを与えたりしたとは思っていなかった。 1835年、パガニーニはパルマに戻り、今度はナポレオンの第二夫人であるオーストリア大公マリー・ルイーゼに雇われる。 パガニーニは、1835年にパルマに戻り、今度はナポレオンの第二夫人であるマリー・ルイーズ大公夫人のもとで、宮廷楽団の再編成を担当する。 しかし、結局は演奏家や宮廷と対立し、彼の構想が完成することはなかった。 パリでは、11歳のポーランド人ヴィルトゥオーゾ、アポリネール・ド・コンスキーと親しくなり、レッスンを受けさせ、サイン入りの証書を渡した。 パガニーニがデ・コンツキの腕に感激して、自分のヴァイオリンと原稿を遺したというのは、偽りの話として広く流布している。

晩年・死・埋葬 編集

イタリア・パルマのパガニーニの墓

1836年にパガニーニはパリに戻り、カジノを開設した。 1836年、パガニーニはパリに戻り、カジノを開いたが、すぐに失敗し、財政難に陥り、楽器などの私物を競売にかけ、損失を補填した。 1838年のクリスマス、彼はパリからマルセイユに向かい、短期間の滞在の後、ニースに向かったが、そこで病状が悪化した。 1840年5月、ニース司教はパガニーニに最後の儀式を行うよう、地元の教区司祭を送り込んだ。 1476>

1週間後の1840年5月27日、パガニーニは内出血のため、司祭を呼ぶ間もなく死亡した。 このことと、悪魔との関係が広く噂されていたことから、教会は彼の遺体をジェノバでカトリック的に埋葬することを拒否した。 4年後、教会は彼の遺体をジェノバに運ぶことを許可したが、まだ埋葬はされていなかった。 1876年、ようやくパルマの墓地に埋葬された。 1893年、チェコのバイオリニスト、フランティシェク・オンドゥシェクが、パガニーニの孫のアッティラを説得し、遺体の拝観を許可した。 このエピソードの後、パガニーニの遺体は1896年にようやくパルマの新しい墓地に再埋葬された。

Personal and professional relationshipsEdit

恋愛には事欠かなかったパガニーニだが、1813年にミラノで出会ったコモ出身の歌手アントニア・ビアンキとは真剣に付き合っていた。 二人はイタリア各地で一緒にコンサートを開いた。 二人の間には、1825年7月23日にパレルモで生まれた息子、アキレ・チーロ・アレッサンドロがおり、サン・バルトロメオ教会で洗礼を受けている。 1828年4月、ウィーンにて、二人は結婚を解消した。 パガニーニはアキレをヨーロッパ演奏旅行に同行させ、アキレはその後、父が亡くなるまで同行した。 1476>

パガニーニは、作曲家ジョアキーノ・ロッシーニやエクトール・ベルリオーズとも親交を深めた。 ロッシーニとパガニーニは1818年の夏、ボローニャで出会った。 1821年1月、ナポリから帰国したパガニーニは、ローマでロッシーニと再会し、ちょうどロッシーニのオペラ「マチルデ・ディ・シャブラン」の指揮者が急死したため、代理指揮をすることになった。 1476>

パガニーニはパリでベルリオーズと出会い、ペンフレンドとして頻繁に文通をするようになる。 パガニーニはベルリオーズに作品を依頼するが、出来上がったオーケストラとヴィオラのオブリガートのための4楽章の作品「ハロルド・アン・イタリー」には満足しなかった。 この曲は、1年後にヴィオリストのクリスチャン・ウルハンによって初演された。 しかし、彼は自作のソナタ・パー・グラン・ヴィオラ作品35(オーケストラまたはギターの伴奏付き)を作曲している。 パガニーニは、ハロルドに興味がないと言われながらも、しばしばベルリオーズをベートーヴェンの復活と称し、晩年には多額の寄付をした。 二人はギターに積極的な興味を持ち、それを演奏したり、作曲に用いたりした。 1476>

InstrumentsEdit

Views of the Hubay 1726 Stradivari

パガニーニは多くの優れた弦楽器を所有していたが、その中で最も重要なのは、弦楽器である。 それよりも伝説的なのは、彼がそのいくつかを手に入れ(そして失い)た状況である。 パガニーニがまだリヴォルノで10代の頃、リヴロンという裕福な実業家が、名工ジュゼッペ・グァルネリの作ったヴァイオリンを演奏会用に貸してくれた。 リブロンはパガニーニの演奏に感動し、そのヴァイオリンの返却を拒否した。 このヴァイオリンは、その力強い音色と響きから、「グァルニエリの大砲」と呼ばれるようになった。 その後、パルマでパッシーニという人物から難しい読譜に挑戦し、もう一つの貴重なヴァイオリン(これもグァルネリ作)を手に入れたことがある。

Il Cannone Guarnerius(イタリア、ジェノヴァのドリアトゥルシ宮に展示)

Paganiniと関係のある他の楽器は、Antonio Amati 1600, ニコロ・アマティ1657、パガニーニ・デサン1680ストラディバリ、グァルネリ・フィリウス・アンドレア1706、ル・ブラン1712ストラディバリ、ヴィヨームc. 1720年ベルゴンツィ、1726年フベイ、1727年コジオ・ディ・サラブエ、ヴィオラは1582年ダ・サロ・ディ・ベルトロッティ、1731年メンデルスゾーン、チェロはピアッティ1700年ゴフリラー、1707年スタンライン、1736年ラーデンブルク、ギターは1820年ミレクールのグローベルグである。 1476>

ギターについては、彼が様々な楽器を選択した痕跡はほとんど残っていない。 前述のベルリオーズに贈ったギターは、ミレクールのグロベールという人が作ったフランスの楽器である。 このルシアーは、パリの有名なギター職人ルネ・ラコットのスタイルで楽器を製作した。 1476>

生涯を通じて所有していたギターのうち、経済的に苦しい時期にも売却を拒んでいたジェンナーロ・ファブリカトーレの楽器があり、死の間際に所有していた楽器の中に含まれていた。 また、シュタウファーのギターを弾いていたという根拠のない噂もあり、ウィーンでジュリアーニと会っていたときに出会ったのは確かかもしれない

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。